| admin |


平井和正の「近況+」過去ログです。

全293件。5件ずつ表示。

INDEX表示ウルフガイ・ドットコム
[ 39/59 ]
 2001/04/11  電子出版、ナメんなよ


「本とコンピュータ」誌でアンケートとインタヴューを受けた結果がこの春季号に掲載されている。こちらの意が尽くせたわけではないが、既存の出版社が電子出版をめざしても、あまりいい結果は出ないという結論を感じ取れるだろう。作家たちが自分のサイトで自分の電子ブックを売るのが一番よいのだが、わがe文庫が作家たちにとってよい見本になり、ポータルサイトとして機能するという未来が望ましいと俺は思う。これはまだ風聞の域に毛が生えた程度だが、異種業者としてソニーが乗り出すというニュースがある。作家たちは雪崩を打って、頼りにならない既存出版社が保険をかけたような電子出版社よりもソニーを選びそうな気がしてならない。日本の出版社はいずれも古めかしい前近代産業なのだから、というのが俺の感想だ。
尚、取材時に用意した回答、ちょっと長めだが、付録としてここに公開する。
解答編
● 電子出版への早期取り組み

1980年代に入って間もなく、発売された富士通の初代ワープロ、OASYS100Jを購入。価格はなんと百五十万円もしました。購入の動機は当時、三年ほどかけて「幻魔大戦」シリーズ二本を昼夜兼行で書き続けるうちに、ペンを握る指に激痛が生じて、執筆に支障をきたすようになったから。渡りに舟、と飛びついて、以来親指シフターと化しました。親指シフトの優れた利点は、思考速度とシンクロナイズさせて書けること。
以来二十年近く、ワープロで小説を書きまくりました。当時のパソコン、コンピュータの未来を見据えるSF作家にはお笑い種の稚拙なシロモノ。1995年、WINDOWS95出現によって、本格的にパソコン使いを目指しました。

● 電子文庫パプリ

1980年代から、出版文化には大きな変動が始まりました。本の流通が動脈硬化を起こし、欲する本がきわめて入手しにくくなったことです。明らかに出版業界は一足先に崩壊してしまった日本映画界の後追いを演じておりました。ペーパーをメディアとする出版が資源の限界も相まって、先細りになるのは明白で、インターネットをはじめたばかりの私は当然のようにデジタル・ブックへと赴いた次第。
当時はまだパソコン通信の時代。まずニフティを初めてとするメジャーどころを十社糾合して、本格的なデジタル・ブックを販売することにしました。そのころ、デジタル・ブックを細々と販売する動きがあったとはいえ、ライターはアマチュアレベル、課金制度が整備されていないため、プロ作家の売れっ子が参画するなど夢物語、一般マスコミはまったくこの分野に無知であるばかりか、一片の興味も持たぬ有り様でした。

さて、私平井和正は自分がデジタル・ブックの開拓者となるもっとも好適な資質を備えていると自覚しておりました。ベストセラーの常連として多少は名前を知られており、固定読者も持っている。そして何よりの特技は書き下ろしが出来ること。普通、作家は売れっ子になると、多数の出版社と満遍なく付き合うことを余儀なくされます。狷介な私は大出版社との交際を意識的に避けてきたので、お付き合いは常時二社止まり、そのうちの一社とは改竄事件発生で気まずくなり、残る一社の間も言葉狩りで信頼関係が傷つき、新天地を目指していた。毎月一冊ずつ書き下ろしが出来る私は、新天地となるべきデジタル・ブック業界を自ら育てるしか道がない。固定読者がいて彼らは私の新作を待ち望んでいるのだから、絶対にやらねば、と決心。

ニフティ以下十社を糾合してスタートした時は、新作「ボヘミアンガラス・ストリート」は全九巻がすでに書き下ろされているという好条件。一般マスコミに関心を抱いて貰えるチャンスでした。
狙いは見事的中、「ボヘミアンガラス・ストリート」は一巻あたり四桁の部数を販売することが出来ました。当時の未開拓のデジタル・ブックを試みる人々にとって、この数字は驚異的であったでしょう。なにせ、二十部も売れれば成功、と目されていた時代ですから。
昨年、アメリカの超流行作家スティーブン・キングがネットで新作小説を販売、何十万という売り上げを上げましたが、衝撃度としてはまさしくあんな感じだったでしょう。

1995年、アスキー出版を足掛かりに始めた電子出版は、手前味噌のようですが、まさしく画期的でした。パソコン通信時代のテキスト販売を中止、カラフルな本格的電子出版物として再スタートしたからです。その後アスキー出版が深刻な営業不振で撤退するまで、着々と基礎固めを行いました。
陰気な味もそっけもないテキストなんか駄目だ、というのが私の絶対的信念。すでにペーパー・メディアで達成したカラー化で行かなければ、読者たちははなはだ不満に思うだろう。やるなら徹底的にやろう。というわけで、アスキー出版で手がけていた紙の本は、カラー化を特化させ、電子ブックのためにイラストレーターには泣いて貰って装幀、口絵を含めてイラストはすべてカラーで二十数点、という紙の本でもやっていない無茶な冒険をやりました。これが当たって、売れ行きは倍増、更に倍増。
しかし、アスキーが崩壊的退縮に至って、離れる決心を固めた理由は、この出版社がデジタル文化にもっとも寄与する条件を備えているにも関わらず、とんでもない考え違いをしていたからです。
とてつもなく使いにくい暗号キーを使用、読者が手に入れにくいようにしてしまったこと。私自身で購入を図ってもうまくいかない、失敗続き、とあれば、購入しようと望む読者の迷惑はここに極まれり、というわけで、何度も暗号キーの廃止を要請するも聞き入れられず、アスキーと手を切り、小規模なデジタル出版社「ルナテック」に鞍替え。
販売点数、売り上げともに急増中です。要するに読者が買いやすいシステム、読者が喜ぶ魅力的な本造り、それを提供するしか小資本の小規模デジタル出版社が生き延びる見込みはゼロなのですから、これまで手がけた大手のデジタル出版社が不振に喘ぐ、というのであれば、それと正反対のシステムを採用しているとしか言いようがありません。

●今後電子出版販売に不可欠なこと。

電子文庫パブリ、読者の要望に沿っているとはとても思えません。新作書き下ろしがない、カラー化がなされていない、読者の割高感が強い。表紙もないような本をだれが書店で買うでしょう。読者としての視点が欠如した商売は、ペーパーであろうとデジタルであろうと成功の見込みはありません。少なくとも私自身、電子文庫パブリで買い物をするほど買い気をそそられません。「ルナテック」で私のe文庫をお買い上げ下さる読者の皆さんは、こんなに安くて大丈夫ですか、やっていけるんですかと心配してくれます。読者の支持を得ることが開拓期においては絶対不可欠なんですけどね。

何にも増して不可欠なのは、読者の歓迎するリーダーです。三十分もモニターの前に座っていると覿面に頭痛がするようなシステムで、読書なんか出来ますか? 高価だった液晶モニターは毎年安くなっていますが、まだまだ。私に言わせれば、読書は寝っころがってするもの。一時はリブレットという東芝製の人気のあった小型ノートパソコンで読書を勧めていましたが、これも寝っころがっていると支える手が辛い、まるで分厚いハードカバー本並みだし、ノートパソコンは発熱体なので、低温火傷が心配だったりする。
電子ブックが大ブレークする時は、この寝っころがって、という条件をクリアーした時です。それは電子ペーパーと呼ばれる、本物の紙のように折り曲げ自由の持ち運び至便、寝っころがって読めるリーダーが廉価で販売される時です。PDAには期待しておりません。豆本を読むとやはり頭痛がしますからね。

● 電子出版の未来

紙の本の未来は、だれが考えても悲観的でしょうが、非常に高価な商品として細々と永らえることは疑いません。資源問題は限界に来ているのですから、電子ペーパーが一刻も早く実現することを日夜祈っております。紙資源業界が術策を弄して電子ペーパーを葬ろうとするような未来があったら困りますね。(「メガビタミン・ショック」という本を書いて、製薬業界が本気でメガビタミンを葬ろうとした事実を知りました。)

○ 最後に

e文庫、というネーミングを思いついたのは、もちろんiモードに触発されたせいです。なぜかインターネットの世界では大文字のアルファベットが野暮です。これは感覚的な問題で、だからこそ重要です。iモードというネーミング、大文字でIモード、だったら、こんな大爆発に至らなかったろう、と本気で思います。少なくとも買い気は起きなかったことは私自身確実です。



  
 2001/04/10  ご存じヨコジュンの痛快青春記


「ヨコジュンのハチャメチャ青春記」を紹介する。
ヨコジュンこと横田順弥氏はこの数年、いろいろ憂鬱なこと嫌なことが続いて低迷していたが、やっと吹っ切れたようだ。それはこの自叙伝を読めばすぐにわかる。勢いがあって愉快なヨコジュン独自のハチャメチャ調が復活している。おもしろいことは俺が保証してもよいから、書店で巡り会ったら是非とも手に取ってみて下さいまし。(出来るだけ古本屋では買わないように)尚、本の中でヨコジュンが俺を師匠呼ばわりしているのはあまり本気にしないこと。俺は一度も小説の書き方をヨコジュンに指導したことはない。本を読む限り実際に指導したのは小松左京だから、師匠の本筋はこっちだろう。尚、本の中で、小松左京が俺の仲人だと誤記されているが、俺の仲人は故星新一さんである。小松左京は筒井康隆の仲人だ。ヨコジュンはパソコンをやらない人なので、これを読む機会はあるまいが、ヨコジュンや鏡明たち「一の日会」メンバーが俺の本のキャラになって登場したのは「超革命的中学生集団」だけではない。「地球樹の女神」でも重要なキャラクターとして活躍している。さては、ヨコジュン、読まなかったな。泣きながらハードカバー全十三巻、贈呈したのによう。

  
 2001/04/04  句集「超獄」


句集「超獄」

俺の中大ペンクラブ時代の友、本間俊太郎の句集である。断っておきたいが、俺は作家だし、俳句をひねる、という次元では、発句など大嫌いだ。特に作家仲間で俳句をひねくっているちまちました姿を見ると寒けがする。小手先の技で言葉をいじり回すのは、言霊使いからすると、嬰児虐殺といったレベルで、(大げさすぎる)作家が言霊に見放される早道という恐怖感があるからなのだ。
本間俊太郎は、獄舎に繋がれている時、俳句に目覚めたらしい。鉄格子の独房で俳句造りをする姿を想像すると、痛ましい気もするが、本人にとっては超獄ということだから、まあよしとしよう。詩人の魂の持ち主である本間の句は、余人にはない宇宙観があって俳句嫌いの俺も感銘を受けたりする。これは俺の持論なんだが、作家は獄舎に繋がれた時に最高の仕事をするだろう、という無責任な言いぐさが、ある意味で実証されたような気がする。句集「超獄」から、俺の気に入った句を幾つか紹介する。

行く春や鉄扉閉まりて一人座す

イラン囚茄子の味噌汁配りをり

蝉の声「仏も殺せ」と聞こえけり

囚は皆へのへのもへじ油照り

昼寝覚われ不在なりかつ非在

精神も拘置可能の空に鱶

鷲一羽苦行を捨てし仏陀かな

青地球人は夕映えたりうるか

出獄後、インドに渡って

マガタ国蛇の棲み処となりにけり

ガンガー河魂のごと檸檬浮く

文明は糞の城なり赤砂漠






  
 2001/04/01  ご無沙汰しました。


根をつめて仕事をしていたら、覿面に眼精疲労が猛烈な雪辱を遂げに来た。理由はわかっている。前回の眼精疲労の蹂躪に遭った時に、左右の視力が食い違ってしまったのだ。強制視力で片方が1・0で片方が0・6、根をつめて仕事をするとどうしても良い方の目に負担がかかる。で、気がついた時にはひどい霞み目と涙目。しばらく休養するしか手がないのだが、余儀ない事情もある。その結果、目が痛みだして、視力を必要とすることは何一つ出来なくなった。仕方がないので、両目に眼帯をかけて終日、古今亭志ん生(五代目)のテープとCDを聴いて過ごすしか手がなくなった。落語のコレクションは全部サッチャンのものだ。で、今回紹介するのは、「本とコンピュータ」という雑誌。季刊誌だ。快くアンケートに応じると、e文庫についての取材を頼まれた。日頃思っていることを喋っただけだが、向こう様には新鮮な発言だったらしい。四月発売の号に取材とアンケートに応じた記事が掲載される。
話は違うが、使っているプロバイダー(NIFTY)が従量制を廃して以後、めっきり繫がらなくなった。ひどい時には繫がるまで二、三十分もかかる。世はブロードバンド時代なのに、俺だけは趨勢から切り離されてしまったようだ。インターネットがはるかに遠い。まあいい。別に死ぬわけじゃないし。

  
 2001/02/18  鉄腕アイボ


このところ(といっても何カ月間もずーっとだが)特に近況ネタというものはない。書斎に閉じこもったまま一心に言霊を招来しているだけの生活だ。鬱陶しいと思うかもしれないが、この招霊をやらないと小説は書けない。自分の内部に沈潜するのだ。毎日多忙であちこち駆けずり回るのが好きな作家もいるに違いないが、俺がそんな真似をしようものなら、作品は何も残らなかったろう。ウルフガイも幻魔大戦もそのほか諸々、なんにも生み出されなかった。断っておくが、何も同情してくれと言っているわけではない。やむを得ずにやっていることだ。煮詰まって怒鳴りだしたくなるのはしょっちゅうだが、耐えるしかない。言霊が寄りつかない時は、固い岩盤に爪で文字を彫り込むような絶望的な気分になる。ひたすら忍の一字だ。他の作家のことはよく知らない。あんまり興味もない。面白いのはやっぱり漫画家だ。アシスタント多数を指揮する大変なストレスがのしかかってくる。娘の摩利は漫画家であり、毎月苦難の試練を繰り返すさまを見聞きするにつけ、俺は小説家でよかったなあ、と思うのはそんな時だ。担当のマル編と喧嘩するだけで済むからだ。四人も五人もアシスタントを相手にいさかっていたら、小説なんか書けるはずもない。ストレス過剰でとっくに死んでいる。
しかし、他人事だから、漫画家の苦難を見聞きするのは興趣がある。手塚治虫さんなど、話に聞くだけで抱腹絶倒な逸話が多い。前に友人の豊田有恒氏が手塚さんに裏切り者扱いされ、虫プロの一室に軟禁されて金切り声で怒鳴られた話を紹介した。だれかれ構わず手塚さんが金切り声で怒鳴り散らすのは一種のストレス解消法だったのではないかと思う。俺だったら一週間で即死するような多数の締め切りに追い回されるストレス以上に、あの人は自分の人気を気にすることでストレスを増殖させる人だった。自分を凌ぐような新鋭漫画家が出てくるたびに、自分と新鋭漫画家の作品の人気を比べ、アシスタントたちに質問する。いつも怒鳴られている恨みか、アシスタントたちは馬鹿正直に自分の意見を述べる。必ず手塚さんが逆上するような答えになるので、ショックのあまり虫プロの二階から螺旋階段を転げ落ちたという。それも、何度も何度も転げ落ちたらしい。新人漫画家に対しては、あくまでも頭が低かったが、内心は高圧の嫉妬で煮えたぎっていたのだ。その嫉妬心をブースターにして仕事をしまくったわけで、余人には出来ない大量の仕事が可能になった。だから、一般読者たちと違って、手塚さんを一概に好きだの嫌いだのとは言いにくい。手塚さんを知る人はたいしたタマだよ、と言っている人のほうが多いのだ。手塚さんはわれわれに対しては、星新一さんと同じ寅年生まれと自称していたが、没後に三年もサバを読んでいたことが判明した。デヴューが早かったので、若造、小僧っ子と思われるのを嫌ったのだろう。偉大なヒューマニズムの伝道者のような評判をかちえたのに、「鉄腕アトム」を代表とする作品の偽善的ヒューマズムを嫌った手塚さん。複雑な人だった。その手塚さんを忍んで、アイボに鉄腕アトムのポーズを取らせた。空を超えて、ラララ・・・という主題歌だ。ところが鉄腕アイボは見事に逆立ちしてでんぐりかえり、俺はサッチャンから大目玉を頂戴した。

  

全293件。5件ずつ表示。

INDEX表示ウルフガイ・ドットコム
[ 39/59 ]

This CGI Script is upboard v2.0